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更新日:2024年12月24日
場所:大里
来迎寺跡墓塔群には、市来を古くから統治していた市来氏歴代の墓が建てられています。市来氏は同じ惟宗姓を持ち、後から地頭として赴任してきた島津氏と時には協力し、時には戦ってきましたが、ついに1462(寛正3)年、市来久家・忠家親子の時、島津氏により滅ぼされました。
場所:川上
市来貝塚は大正10年に山崎五十磨、昭和36年には河口貞徳により発掘調査が行われました。36年の発掘調査では人骨が3体出土し、多数の土器、石器、骨角器が出土しました。また、平成2年度・4年度に学術調査を実施し、全国でも数例、九州では初めてというオオヤマネコの骨や、西北九州に広く分布する組合せ石銛が出土しました。貝層は舌状台地北斜面に形成され、台地上には土坑や住居址と思われる遺構が検出されています。平成6年3月16日に県指定文化財に指定されました。
場所:大里
県指定を受けている市来氏歴代の墓以外に、層塔や五輪塔が市の指定にされています。特に層塔は島津初代惟宗忠久を産んだとされる丹後局の墓と言われています。
場所:大里
金鐘寺由緒によると、丹後局が建立し、初めは万年寺と号していた。丹後局の死後は仕えていた女中が尼となり数代続きました。永和3(1377)年に市来氏が了堂和尚を招いて再興し、寺号を金鐘寺と改めました。当時は七堂伽藍が建ち並び、末寺が全国に49にも及び隆盛を誇っていました。その後、火災にあったり豊臣秀吉の島津征伐で寺は破壊され荒廃するが、その度に建て直し、その後30数代まで続きました。しかし、明治2(1869)年、廃仏毀釈により廃寺となりました。現在は歴代住職の墓である無縫塔などが残されています。丹後局は、島津初代惟宗忠久の産みの母と言われています。
場所:大里
現在のJR市来駅付近と言われています。言い伝えでは、鎌倉時代(1185~1333年)、丹後局が薩摩入国の際に船を着けて上陸した場所であると伝えられています。丹後局は、島津初代惟宗忠久の産みの母であり、忠久は丹後局と源頼朝との間の子であると言われています。市来には薩摩渡瀬や北條水、丹後局七社、丹後局の墓など、丹後局に関する言われが多く残されています。
場所:大里
市来氏の創始者、大蔵政房が1200年前に市来郡司となり居城したといわれています。台地の中央の層塔は、島津家初代忠久の母の丹後の局と結婚し、市来院の地頭となった惟宗広言の墓だと伝えられています。(左写真:惟宗広言の墓、右写真:鍋ヶ城跡に立つ惟宗広言の墓)
場所:湊町
町門は天神町にありました。この門は湊町へ出入りするための門で、木や竹を組み合わせて作られていました。お仮屋に近かったため、町内の出入りを厳しく取締まっていました。市来町郷土誌によると、天正12(1584)年、九州制覇で島津義久・義弘が肥後佐敷に軍を進めた際、家久は島原攻めに向かうが、この時に家久率いる軍勢3000余騎が市来湊に一泊し、町門付近で隊伍を整え出発したことが記されています。
場所:湊町
当時、九州において、外国との通商貿易は長崎港で行われ、長崎奉行が取締まりを行っていました。薩摩藩では重要な港(山川、坊之津、油津等)には御船奉行を置き、当時頻繁に行われていた密貿易や外国船の漂着などを取締まっていました。市来湊は、九州各地からの船が出入りする栄えた湊であったため、藩庁から役員を派遣し、その取締役所として天神町の菅原神社付近に川口番所が設置されました。禁を犯したものは重罪に処せられていました。川口番所は通常は津口番所と呼ばれていたが、市来では川口番所と呼ばれていました。
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