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更新日:2024年12月24日
場所:西島平
1790(寛政2)年に、島津家第26代斉宣(なりのぶ)が市来温泉に湯治の折り、照島に来ました。雄淵と雌淵のあたりを眺められていたそうですが、しばらくして雄淵の上にある岩に驪龍巌と書かせ、彫刻するように命じました。※市来の金鐘寺にあった伏虎石(ふっこいし)と対になっていると考えられます。
場所:照島
文禄・慶長の役の際、1598(慶長3)年12月、島津家17代義弘は陶工70名ほどを薩摩へ連れてきました。陶工のうち一部は島平に上陸し、窯を焼きました。それが薩摩焼発祥の地です。
場所:羽島
1865(慶応元)年3月、羽島から五代友厚ら3名の外交視察団と通訳、留学生として薩摩藩士の若者15名が、ヨーロッパに渡りました。一行は同年5月イギリスにつき、それぞれ欧州で産業や語学等を学び、日本に帰ってきました。帰国後それぞれの分野で日本の先駆的役割を果たしました。
場所:浅山
大中公とは島津家15代貴久の法名「南林寺殿 大中良等庵主」の大中からきています。この教養等は、貴久の御霊を家久が祀るために建てたものです。
場所:麓
串木野氏は、薩摩郡地頭平忠直の子串木野三郎忠道に始まって、2代忠行、3代忠秀、4代目平次郎、5代忠秋と5代120年あまり続きましたが1342(興国3)年串木野城の戦いで島津家5代貞久に敗れ知覧へ逃れました。
場所:芹ケ野
この2つの橋は、1852(嘉永5)年、芹ケ野金山の出水筋に5つ架けられた石造アーチ橋です。これらの橋は、肥後(熊本県)の石工岩永三五郎の技術を習得した薩摩の石工が架設した橋であると言われています。(上写真:北口屋橋、下写真:椿平橋)
場所:麓
旧入来邸武家屋敷は本市に所在する武家屋敷を代表するものであり、建築年代は少なくとも幕末期と考えられる。また、庭に植えられている古木(イヌマキ、ゴヨウマツ)も江戸時代のものと考えられる。
場所:中尾町
藩政時代、冨宿家にあった「ウッガンサァ(内神様)」が祀られています。戦後の都市計画によって、この一画を「うっがんどんの森」とし、内神の祠と椋・榎・たぶの木の3本の大木が残されました。
場所:旭
十里塚は、鹿児島市内の「下町の札辻」と呼ばれる所から、十里のところに築かれた塚です。この付近には昔、江戸へ向かう「出水筋」が通っていました。
場所:冠嶽
この蘇鉄は、霊山寺の坊舎跡と思われるところから移設したものです。霊山寺がなくなったのが1482(文明14)年と言われています。樹木医によると平成21年当時の調査で樹齢およそ273年と考えられています。霊山寺に生えていた蘇鉄の2~3代目の蘇鉄の可能性があります。
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