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更新日:2017年11月29日

歴史と由来・民俗(1)

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いちき串木野の歴史と由来

留学生渡欧の地

江戸時代末期の薩摩藩は、生麦事件に端を発した薩英戦争を契機に、西洋から様々な技術や知識を学び、近代的な国づくりを推進しようと、開成所を中心とした薩摩藩士ら19名を密かに英国に留学させるという方針を決定しました。
当時は鎖国中であり、海外渡航は国禁であったため、留学生たちは全員変名を与えられ、また甑島大島周辺の調査と称し、乗船する船が来るまでの約2ヶ月間を羽島の藤崎家・川口家で過ごしました。
1865年4月17日、羽島沖に現れた蒸気船オースタライエン号に乗り込み、二度と薩摩の地は踏めないかもしれないとの決死の覚悟で、英国へ旅立ちました。約2ヶ月に及ぶ長旅の末、イギリスのサザンプトン港を経て、ロンドンに到着した彼らは、ロンドン大学(UCL)に在籍し、慣れない地で必死に勉学に励みました。
そして、彼らが習得した語学、医学、化学、文化、陸海軍の近代的な技術と知識は、その後の日本近代化への原動力となりました。
よって、本市の羽島は近代日本の出発点とも言える、記念すべき「黎明の地」といえます。

さつま焼発祥の地照島(北本壺屋)

さつま焼発祥の地

島津義弘・忠恒(後の家久)父子は文禄・慶長の役の後の、慶長三年(1598)12月、朝鮮の陶工70余名を日本に連れてきました。その際、ここ串木野にも朝鮮の陶工、43名が上陸し、いちき串木野市照島(北本壺屋(きたもとつぼや))でさつま焼を始めました。この地は日本陶芸史上重要な意味を持つ土地であり、現在この地の一角に記念碑を建立してあります。

串木野の地名の由来には諸説ある

  1. 冠岳神社の祭神の櫛御気命(くしみけのみこと)から「くしきの」は発生したという説。
  2. 串木野は大むかし、葦の生い繁った沼沢地であったといい、こういうところをアイヌ語では「くしきの」という説。
  3. 伝承として藩寺社方御修甫の猪田大明神を奥州丹沢郡より祠官入枝志摩丞の先祖が招請して五反田川を船で渡り、浜ヶ城近くまで来た時、朽木の大木が横に伏せ一行の行く手を阻んだので、その夜は仮小屋を作り一泊し、翌朝目覚めてみると大木は跡形もないので、一同「ふしぎのう」と言ったので、「くしきの」の地名になったという説。
  4. 『猪之日太大明神来由記』によれば、木屋の屏風岩に臥木があり、それに腰掛け、まずそこに鎮座、その後宮原に遷宮するが、その時、臥木野と名づけ、後、串木野と改めたという説。

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お問い合わせ

いちき串木野市役所社会教育課文化振興係

〒899-2192 鹿児島県いちき串木野市湊町1丁目1番地

電話:0996-21-5113

ファクス:0996-36-5044

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