ホーム > 教育・文化・スポーツ > 文化 > 文化財資料 > いちき串木野市の指定史跡名勝天然記念物 > いちき串木野市の史跡名勝天然記念物(3)
ここから本文です。
更新日:2024年12月24日
場所:湊町
市来郷行政の役所跡で、現在の市来庁舎の所です。少なくとも1613(慶長18)年、入来関係文書に「市来港御仮屋」の記載があるので、この頃には置かれていたようです。お仮屋は市来郷の長官であった地頭の役所で、藩主が参勤交代の時に宿泊したり休憩することもありました。当時のお仮屋は規模が広大で約4反歩(1200坪)あり、四方に柵をめぐらし、2階建ての楼門を構える立派な茅葺の建物であったそうです。
場所:湊町
市来庁舎北側の潮音寺跡の墓地内にあります。徳右衛門は幼くして父と死別し、兄太兵衛と一緒に母の面倒をみていました。母は酒好きで大変気難しく、徳右衛門は3度妻を迎えましたが、その度、母が難癖をつけ気に入らず、3度とも離縁したそうです。その後は結婚もせずに、母が90歳過ぎまで誠心誠意世話をしたそうです。その並々ならぬ孝行が、時の藩主島津宗信に知られることとなり、寛永2(1749)年、米15俵を賜り、孝行の手本として褒め称えられたと伝えられています。墓石には「孝子德用居士」の文字が刻まれています。
場所:湊町
天神町の野田家にある門です。江戸時代、お仮屋には藩主の使う本門と家来の使う通用門とがあり、お仮屋通用門は家来などが使用した門です。本門は決して一般人の通行は許されなかったそうです。この通用門は、後にお仮屋の形見として野田家に払い下げられたものです。野田家の野田傳内は学者として藩に仕え、唐通事(通訳)も務めた人物でした。
場所:川上
市来氏の分家の河上氏は、市来院河上名主職をもらい約350年間河上を治めていました。その河上氏の居城と言われるのが、川上城跡です。河上氏は、16世紀末(天正から文禄年間頃)に伊集院忠棟の婿であった本田氏とのもめごとにより川上の地を追われました。
場所:湊町
外戸の観音ヶ迫の山中にあります。巨大な自然石が重なり合い、その巨岩に囲まれた洞窟内には2体の観音像が祀ってあります。この巨岩の根元付近には「青龍岩」と刻まれており、年中絶えることのない清水をが湧いていたそうです。また、明治頃から毎年6月に麦酒を造って「お観音詣り」が続けられていましたが、終戦後からその行事も行われなくなりました。岩屋観音は、昔から様々な御利益があると言われ、信仰の対象として今でも崇められています。
場所:大里
この治水溝は、1852(嘉永五)年に完成しました。中原のシラス台地がたびたび崩れ、住民の生活はもちろん参勤交代で使用された出水筋にも被害をもたらすものとして、藩の直営工事として施工されました。(左写真:中原の治水溝、右写真:中原の治水溝水神碑)
場所:川上
市来氏の分家である河上氏一族の墓であると言われ、鎌倉弘安期(1278~87)の墓と思われる五輪塔群があります。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください
Copyright © Ichikikushikino City All Rights Reserved.