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更新日:2014年12月14日

歴史と由来・民俗(3)

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来迎寺墓塔群

市来氏歴代の墓

県指定文化財に指定されている来迎寺墓塔群は、市来を古くから統治していた市来氏歴代の墓が建てられている。市来氏は惟宗姓を持ち、後から地頭として赴任してきた同じ姓を持つ島津氏と張り合い、時代によっては敵となり味方となって市来を統治し続けたが、ついに寛正3年(1462年)市来久家・忠家親子の時、島津氏により滅ぼされた。また、墓塔群敷地内には島津初代忠久の母とされる丹後局の墓がある。

金鐘寺跡

永和3年(1337年)市来氏は大阪出身の了堂和尚をまねいて開山した。当時は七堂伽藍が建ち並び、末寺が全国に49にも及ぶ隆盛を誇っていた。明治2年の廃仏棄釈により廃寺となった。

町門の跡

町門の跡は今の天神町にあった。この門は、湊町に出入りするための門で木や竹を組み合わせて作られ、お仮屋に近いせいもあって、町内の出入りを厳しく取りしまった。

川口番所跡

天神町の菅原神社の付近にあった。薩摩藩では重要な港には、御船奉行を置き、密貿易を取り締まった。当時の市来港は、九州各地からの船が出入りする栄えた港であり、薩摩藩もここに番所を置いて取り締まった。

船着場跡

市来駅前付近で、鎌倉時代丹後の局が薩摩入国の際、ここに船を着けて上陸したと伝えられている。

お仮屋通用門

天神町の野田家の門である。江戸時代、お仮屋には藩主の使う本門と家来の使う通用門とがあった。野田氏の祖先が、当時唐通使(通訳)として仕え、払い下げられた物だという。

お仮屋跡

現在、市来庁舎のあるところがお仮屋跡である。お仮屋は、市来郷の長官であった地頭の役所で、藩主が参勤交代の時宿泊したり、休憩したりすることもあった。

岩屋観音

外戸・観音ケ平の山中の洞窟に岩屋観音がある。この洞窟は、巨大な岩が幾重にも重なりあったもので、洞窟の中には、2体の像が祀ってある。

孝子徳右衛門の墓

市来庁舎裏の潮音寺跡の墓地の中にある。九十歳すぎまで生きた厳しい母に誠心誠意仕え、時の藩主から寛永2年(1749年)に米15俵を賜り、孝行の手本として誉めたたえられた。

上城詰城跡

上城詰城跡全景(空撮)

上城詰城跡出土品

上城詰城跡は市来氏関連の中世山城で、鍋ヶ城跡の出城であると考えられている。現在は堀切や土塁、大手門など遺構が残っている。当城は、県営農村活性化住環境整備事業により発掘調査がなされ、掘建柱建物跡や13世紀から16世紀の貿易陶磁や滑石製品、火縄銃の弾丸等が出土している。また、地鎮祭などを行なったと考えられる祭祀遺構も検出された。その他旧石器時代から平安時代までの遺物も検出されている。特に旧石器時代の遺構(土坑)が台形石器を伴い、2基検出されたことは特記すべきことである。

瀧之段遺跡

瀧之段遺跡遠景

縄文時代草創期石鏃

瀧之段遺跡は、平成5年度に県営中山間地域総合整備事業に伴い確認調査が実施され、平成9年度に緊急発掘調査が実施された。遺跡からは、縄文時代草創期初頭と考えられる土器や旧石器時代終末に使用された細石刃核などの石器が出土した。これは旧石器時代的要素を持ちながら縄文時代的新しい要素を持ち合わせる、旧石器時代から縄文時代への過渡期の遺跡と考えられている。特に、遺跡からは石鏃を製作したであろう痕跡が伺え、且つ多量の石鏃の出土(41本)は、その当時の環境変化などに伴う狩猟形態の変化が伺える。

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お問い合わせ

いちき串木野市役所社会教育課文化振興係

〒899-2192 鹿児島県いちき串木野市湊町1丁目1番地

電話:0996-21-5113

ファクス:0996-36-5044

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